ते ह्लाद परितापफलाः पुण्यापुण्यहेतुत्वात् 2-14
テ フラーダ パリターパファラーハ プニャープニャヤ へトゥ トワート
ते テ
それらは
ह्लाद フラーダ
喜び(と)
परिताप パリターパ、パリタープ
苦しみ(の)
फलाः ファラーハ
結果をもたらす。
पुण्य プニャヤ
功徳と
अपुण्य アプニャヤ
悪行
हेतु त्वात् ヘトゥ トワート
हेतु त्वात् ヘトゥ トワート
~を元にして
ヨーガスートラのことを、インドでは「ヨーガダルシャナ(ヨーガダルシャン)」ともいいます。ダルシャナとは「観る」とか「哲学」という意味をもつことから、「ヨーガダルシャナ」とは「ヨーガ哲学」という意味があり、インドの六派哲学のひとつになります。
ヨーガスートラの中に修行の進捗にあわせて8つのステージが説かれています。その体系を「アシュターンガ・ヨガ(八支則のヨーガ)」または「ラージャヨーガ」ともよばれています。
アシュターンガ・ヨガは瞑想の準備段階に入ると、二元を超えた世界に入っていくように見え一気に高尚な領域に行くように感じます。それも、瞑想に入る前までの下準備の段階を「バヒランガ(外)・ヨーガ」といい、瞑想の実践に入りだすとそこから「アンタランガ(内)・ヨーガ」という言葉の力にもあると思います。
しかし実は、ヨガの入門をして初めに学ぶ土台作りのヤマ・二ヤマの段階から二元を超えた霊的な世界に入っていることを感じられていくことでしょう。
ヤマ、ニヤマの修行内容は社会的に生きる術を学んでいるだけではなく、その時点から、サンスカーラを入れ替えていくために行っているからです。
परिणाम ताप संस्कार दुःखैः गुणवृत्तिविरोधाच्च दुःखमेव
सर्वं विवेकिनः 2-15
パリナーマ ターパ サンスカーラ ドゥカェヘ グナヴリッティヴィローダーッチャ ドゥカメーヴァ サルヴァン ヴィヴェーキナハ
▶परिणाम दुःख パリナーマ ドゥーカ
「パリナーマ」とは、「結果」、「転変」という意味があり、欲求を達成したあと現象が転変することによる苦をいいます。ビフォアーとアフターの違いによる苦しみです。たとえばテキスト中のある例として、性的欲求が満たされたあと、体力、テージャスという輝き、記憶力などが乏しくなるなどが挙げられます。また、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの解説によれば、「たとえばラスグッラー(インドのお菓子)を10個食べたいが、8個ぐらい食べると満腹で残り2個が食べられなくなり、残り2個を無理やり食べたところお腹を壊す、という苦」
(ほか参照 バガヴァッド・ギーター 18-38)
▶ताप दुःख ターパ ドゥーカ
▶ताप दुःख ターパ ドゥーカ
将来失うことに対する精神的苦。食べ物、自分が大切にしている私物、名誉、社会的ステータス、家族、恋人など、まだ起こっていないが失なうのではないかと恐れからくる苦。
また、それをきっかけにくる不満や、他人への嫉妬がおこるのも、この種の苦。ヴィヴェーカーナンダの解説によれば「たとえばラスグッラー(インドのお菓子)を晩御飯のデザートに食べようと大事に家に置いてあるが、仕事から帰ってきたら家族が食べてしまって無くなっているのではないか、ネズミがかじってはいないだろうか、というまだ起こっていないが失う恐れからくる苦。」
▶संस्कार दुःख サンスカーラ ドゥーカ
幸せだった過去を思い出して嘆く苦。一度味わった美味しいことはサンスカーラに記憶され、今の自分の状況と比べて昔はよかったと嘆く苦です。
たとえば、テキストの例を挙げると「幼かったころの息子はあんなに可愛かったのに今は自分の事を侮蔑する」「昔は牛や家、お金、家族に恵まれ幸せだったのに、今は乞食になってしまった。」という、過去の幸せと今を比較する苦。
गुणवृत्तिविरोधात् グナヴリッティ ヴィローダート
「相反する三つのグナの働きによって起こるので」
グナヴリッティ(गुणवृत्ति )とは、サットヴァ・ラジャス・タマスの相反する3つのエネルギーが動き続ける性質をいいます。
サットヴァは光や智慧の性質、ラジャスは激情や動きまわる性質、タマスは無知や暗闇、怠惰の象徴です。
この三つが調和がとれないことにより上記の三苦が生じます。グナを超えた調和のとれた世界が「シャンティ(寂静)」とよばれるもので、このグナに支配された次元ではひと時もシャンティは得られることがありません。
(参照 バガヴァッド・ギーター5-22。)
दुःखमेव सर्वं विवेकिनः
ドゥカメーヴァ サルヴァン ヴィヴェーキナハ
「正しく識別する人にとっては一切は苦である。」
欲を満たすために体験を享受することを一般では幸せだと考えますが、現象世界のからくりを知り識別している人にとっては、すべては無常で移り変わることに苦を感じます。“一切は苦”。