द्रष्टा दृशिमात्रः शुद्धोऽपि प्रत्ययानुपश्यः 2-20
ドラシュター ドゥリシマートラハ シュッドーアピ プラティヤヤーヌパシュヤハ
दृशिमात्रःドゥリシマートラハ
第六感、予知能力の備わっている
*水晶の一番近いところに、ブッディ(覚)よりも原始的で純粋な存在があり、チェトナ(ヒンディ語)と呼ばれます。日本語で「第六感、霊感、予知能力」が適格だと思います。未来や過去についてもわかる能力で、すべての人に備わっていますが、訓練をした人や霊性の高い人にはこの能力が顕著に見られます。
द्रष्टा ドラシュター
観る者は
शुद्धोऽपि シュッドーアピ
完全に清純である(が)
प्रत्ययानुपशयः プラティヤヤーヌパシュヤハ
ブッディ(覚)を通して、外界を見る。
真我は澄み切った水晶に例えられ、ただ純粋に観照しているだけの存在です。水晶の外野はすべてプラクリティによって作られた見られる側の世界です。
これは映画館のスクリーンにも例えることができます。上映していない時は真っ白なスクリーンがあって、観客がスクリーンに映ったものを見て2つの関係は結合し、気持ちが入り込んでしまうようなものです。
映画館のスクリーンも水晶も同じく、映し出すものがなければ何も見ることはないけれど、プラクリティが転変する間はプルシャは「見る者」という立場で巻き込まれていきます。その間、ブッディ(覚)を通して見続けることになり、外界を察知するために働きます。真我は純粋にただみているだけで、何も思ったり感じたりしませんが、ブッディを通して色付けして見ることがあります。
तदर्थ एव दृश्यस्यात्मा 2-21
タダルタ エヴァ ドゥリシュヤスヤートマー
「ドゥリシャヤ(プラクリティ/見られるもの)の本質は、真我のためにこそ存在する。」
दृश्यस्यात्मा ドゥリシュヤスヤートマー
見られるものの本質は。
आत्मा アートマー
本質(この節での意味)。
तदर्थ एव タダルタ エヴァ
それ(ドラシュター/真我)のためにこそある。
それ(ドラシュター/真我)のためにこそある。
कृतार्थं प्रतिनष्टंअप्यनष्टं तदन्य साधारणत्वात् 2-22
クリタールタン プラティナシュタンアピャナシュタン タダンヤ サーダーラナトワート
कृतार्थं प्रति クリタールタン プラティ
経験を享受してそこから解放されて悟った者にとっては
नष्टं ナシュタン
(世界は)消滅する。
अप्यनष्टं アピャナシュタン
(アピ+ アナシュタン)
同じ世界でも、(他者にとっては)消滅しない
(अनष्टम् アナシュタム / 消滅しない)
तदन्य साधारणत्वात् タダンヤ サーダーラナトワート
(=तत् अन्यासाधारणत्वात् タト アニャーサーダーラナトワート)
なぜなら他者のためにも(この宇宙は)共有されているから。
一人が解脱して、その人が見るべき世界がなくなっても、他の人にはその世界が存在しています。全員が解脱するまで、この世界は完全に消えることはありません。
そこで、何度も生まれ変わって衆生を救うヴィシュヌ神の化身や、現世に仏が不在にならないよう六道すべての世界に現れて人々を救済する菩薩がいます。
स्वस्वामिशक्त्योः स्वरूपोपलब्धिहेतुः संयोगः 2-23
スワスワーミシャクトョォーホ スワルーポパラブディ ヘートゥフ サンヨーガハ
स्वशक्ति スワシャクティ
巨下たる力。プラクリティ。
स्वामीशक्ति スワーミーシャクティ
主君たる力。プルシャ。
स्वरूपोपलब्धिहेतुः スワルーポーパラブダヘートゥフ
自らの本質を知る因となるもの。
संयोगः サンヨーガハ
(それが)結合である。
過去のおさらいをすると「真我とプラクリティの結合こそが、除去すべき(苦の)原因である」(2章17節)。そして、両者が結合・混合しているのは無明だから、ということでした。
映画館は、観客とスクリーンがあるから成り立つように、プルシャという「見る者」と、プラクリティという「見られる人」が合体していることによって、互いの実体を把握することができます。
しかし、映画館の上映が終わると観客は何も見るべきものがないし、スクリーンには何も映し出されることなく両者の結合は終わります。
तस्य हेतुरविद्या 2-24
タスヤ ヘートゥラヴィディヤー
(結合の)原因になるのは無明・無知である。
हेतुः ヘートゥフ
原因
अविद्या アヴィディヤー
अविद्या アヴィディヤー
無明。無知。
自分が真我だということを知らないために(無明)、プラクリティの世界に翻弄され、それが自分だと思ってしまいます。
仏教では「無我」という表現が使われます。自分が”これが本当の私の魂である”と思っているものなどは虚構だ、ということかと思いますが。インドの思想ではアートマーやプルシャ(真我)という言葉を使います。「無我」や「真我」と聞いて、魂はあるのか無いのか、どちらが正しい・間違っているという論争も過去にはあったようです。言葉や思考の世界は、重くて縛られた世界であり、正解は自分で修行して見るのでしょうね。