सत्त्वपुरुषायोः
अत्यन्तासंकीर्णयोः प्रत्ययाविशेषोभोगः
परार्थत्वात्स्वार्थसंयमात् पुरुषज्ञानम् 3-35
サットヴァプルシャーヨーホ アテャンターサンキールナヨーホ プラティヤヤー ヴィシェーショーボーガハ パラールタトワート スワールタサンヤマート プルシャジュニャーナム
सत्त्व -पुरुषयो:
サットヴァプルシャーヨーホ
覚と真我は
(ここではサットヴァとは “ブッディ(覚)” のことをいいます)
サットヴァプルシャーヨーホ
覚と真我は
(ここではサットヴァとは “ブッディ(覚)” のことをいいます)
अत्यन्त-असंकीर्णयो:
アテャンタ アサンキールナヨーホ
互いに、全く異なるものである(のに)
प्रत्यय -अविशेष:
プラティヤ アヴィシェーシャハ
その認識が(チッタの思い違いにより)混同されている
भोग:
ボーガハ
(それも)経験/享受と言われるものである。
परार्थत्वात्स्वार्थसंयमात्
भोग:
ボーガハ
(それも)経験/享受と言われるものである。
परार्थत्वात्स्वार्थसंयमात्
パラールタトワート スワールタサンヤマート
真我のために転変を見せていたダルマ(パラールタ)から
自己を対象とする(スワールタ)にサンヤマをすることによって
पुरुषज्ञानम्
プルシャジュニャーナム
真我の智慧が生じる
पुरुषज्ञानम्
プルシャジュニャーナム
真我の智慧が生じる
サットヴァ質のブッディ(覚)とプルシャ(真我)の両者は全く異なる存在であるのに、2つが混同されブッディが真我だと錯覚される時、また両者が同一視されることを「アベーダ・ボーガ(अभेद भोग)」と呼びます。無明であることや根本にある「私」という意識のアスミターが原因とされます。
ベーダ(भेद)は「種類、相違、区別」を意味し、打消しを意味する「ア(अ)」がつくと「同一性、一致、混同」を表します。
ボーガ(भोग)はこの世の苦痛や快楽を含むすべての事象を経験することを言い、ヨーガの反対の意味で使われます。プラクリティによって作られた事象はすべてボーガです。これらはチッタの働きによります。
一見、転変だけを繰り返すチッタはヨーガの障害になるだけでは、とも思えますが、チッタの一つ目の役割は、真我に魂の修行をさせ、結果的に混同を解放させることでもあります。
ブッディから見ると真我は他者(パラ)であるので、上記の目的のダルマを果たすことを「パラールタ(परार्थ)パラ+アルタ」とよびます。アルタの意味は「対象」や「目的」を意味します。
ブッディがすべての関係から独立して、自己に集中しようとするとき、それを「スワールタ」といいます。スワは「自己」。
実際プルシャに向かって意識を向けても直視できるものではなく、プルシャもまた自分自身を見ることができません。そこで、鏡や水晶にたとえて、それを通して自分の顔を見るように、投影されたものを察知して真我に近づくという展開になります。実際は見た人だけがわかるところを、文字でおこすとこういう表現になるのだと思いますが。
真我に向けて瞑想し近づくことを
「パォルシェーヤ プラタャヤ(पौरुषेय प्रत्यय )」
または
「パォルシェーヤ ボーダ(पौरुषेय बोध)」ともいいます。
パォルシェーヤは「プルシャと関係のある」「最高我に関する」
真我に向けて瞑想し近づくことを
「パォルシェーヤ プラタャヤ(पौरुषेय प्रत्यय )」
または
「パォルシェーヤ ボーダ(पौरुषेय बोध)」ともいいます。
パォルシェーヤは「プルシャと関係のある」「最高我に関する」
プラテャヤは「信念、知識、証拠」、
ボーダはブッディ、智慧、ヴィチャーラ(深い思考)
といった意味があります。
注意しなければならないのは、月を真我にたとえて、湖面(チッタ)に映った月を見ようとするとき、湖面が揺れていると「月は揺れるものだ」と錯覚してしまいます。揺れてしまう場合はやはりプラクリティが起こす現象の中にあるので、幻影を見ているようなもので、真我とブッディを混同している間は「ボーガ」といえます。
真我の近似値まで近づくことはできても、その障壁をとるにはどうすればいいのか、インドの修行者にインタビューしたことがありました。
ヨガを実践する彼らのほとんどはヒンドゥイズムなのでサーンキャ哲学よりもヴェーダンタの発想寄りなので視点は違えど、より自然的で感心するところがありました。
「プラクリティの世界で起こる事象に対して享受、経験することをボーガという、これはブッディのひとつの働き方。
理知で解決しようとしたり、真我を見ようとする意思とか、その行為自体がボーガになってしまうから、ブッディを使わずに何も考えずに、思考をとめるとアートマ(真我)から伝達がくる。
今まで数々遭遇した窮地の時、最初は解決策を考えたけど、途中で考えるのを辞めて、じーっと瞑想していたら、僕のアートマが他のアートマを呼んで助けられたり、心臓あたりに花が開いているのがわかるようになったよ。」
真我に気持ちは向けた状態にあってもブッディを使おうとすればアートマについての知識は得られず、ブッディもすべて放棄するぐらい身を任せて座ると、そういうのが感じられますよ、と。
ここの節はヨーガスートラの中でも難解なところで、文字だけで意味を追うと難しいところ、最終的にはヴェーダンタ的な発想がヒントになって腑に落ちました。どの学派の筋が通っているというわけではなく、どちらも見識を広げてくれる世界観なので、柔軟に触れて読み進めることがおすすめかと思います。
【サマーディに関する関連語句】
・グラヒートゥリ ヴィシャヤカ サマーディ
ग्रहीतृविषयक समाधि
ブッディとプルシャが同一視されているレベルの三昧
・アスミターヌガタ・サマーディ
अस्मितानुगत समाधि
「私」という意識が伴っているレベルのサマーディの段階。
(1章17節、1章41節)