日本語版で昔読んだラーマーヤナの最終章は、シーターが火の中に入って貞節を証明するアグニ・パリクシャを受けた結果、民衆に受け入れられ目出度しで幕引きだったはずですが、インドの教科書には続きがあり、悲劇と孤独が続くシーターを見てそれまでの物語の余韻が飛んでしまいました。
再び民衆から「シーターがラーヴァナの元で貞節を守れたのか」という噂から、ラーマは自分の王のダルマを守るために妊娠中のシーターを聖仙ヴァールミーキの庵のある森へ住まわせました。そこでラヴ(लव)とクシュ(कुश)を出産してヴァールミーキの元で教育を受けさせます。
シーターの心情が詳しく書かれておらず、宮殿から追い出された心の傷から平常心ではいられなかったと思いますが、恨み節や怒りを見せることなくラーマとの最後の絆・形見として子供を大切に育て、気高く静かに耐える母親の姿が描かれています。
シーターから直接、積極的に「父はラーマである」と教えなかった理由を考えてみたところ
✅父親に捨てられたというアイデンティティを子供達に持たせたくなかった
✅自分を追放した夫について今日までのことを語ることの精神的な辛さ
✅精神的な後ろ盾であり子供達の師であるヴァールミキに適切なタイミングで伝えることを委ねた
こんな心理だったのではないかなあと思います。
後々、ヴァールミーキが「父親がラーマであること」を子供たちに伝え、ラーマがその後ラヴとクシュが自分の子供だと知り、シーターに宮殿に戻るように求めるのですが、ラーマは再びシーターに貞節の証明を求めます。
そこでシーターは尊厳を回復するために大地の女神の前で「もし私が心でも、言葉でも、行為でも、ラーマ以外に思いを寄せたことがなければ、母なる大地よ、私を抱きしめて」と誓います。
大地の女神がシーターを抱き上げシーターが大地へと還ったあと、ラーマは悲嘆に暮れて心が本気で折れます。
あの時何も言わずに宮殿に迎え入れたらよかったのでしょうが、「父親の命令を守ることがダルマだ」とか「王としてあるべきリーダーの振る舞いや義務」、こういったことを信条として生きて来たから、二人は精神的に深く結びついているのに、最期の最期はシーターとの息が合わず、シーターも疑惑に対する究極の答えを出す結末としてパティ・ヴラタ(夫一途の妻)のダルマを完遂し、この世界を去っていきました。
インドの伝統的解釈としては、シーターが疲れて耐えきれずに逃げたというより、自らの純潔を最後に証明して、世俗の苦しみを超え神聖な領域に入るという捉え方のようです。
ラーマは晩年嘆き悲しみ、彼がこの世を去るまではいくつかの出来事が重なりました。
死神(カーラ)が来て「あなたの地上での使命は終わった、天界へ戻る時だ」と告げに来ます。
その前にも、最も寄り添ってくれた兄弟のラクシュマナがある誓いがあり先に命を絶ちました。
ラーマは元々ヴィシュヌの化身でありながら、人間として苦しみます。
映画では、ラーマはアヨーディヤの民衆や兄弟、動物、木々までも引き連れてサラユー川へと入水して、お迎えに来たヴィシュヌ神と一体となり、ハヌマーン達にメッセージをのこして、天界へと帰還しました。
教科書の挿絵でラーマ達が入水していく後ろ姿は、悲壮さが漂っていて、こんな話を小学生はどう受け止めるのでしょうか?
まわりのインド人たちは「死ではなく、天界へ戻っただけ。」と言うのですけど、英雄の物語の最期を受け入れるまで、もう少し時間が欲しいところです。
さて、ヴィシュヌの化身のひとつに仏陀も十大化身として存在するのですが、ラーマの直後ではなく、ラーマと仏陀の間にクリシュナがいます。ラーマもこの世で辛酸をなめ修行をしたけれど、まだクリシュナとして転生する必要があった、そして仏陀として生を受けた時は人間が持っているような感情が滅される境地までたどり着いて、ほぼ完成に思えるのですが、「カルキ」という未来の化身が予言されているそうです。
