भवप्रत्ययो विदेहप्रकृतिलयानाम् ॥19॥
バヴァ プラティヤヨー ヴィデーハ プラクリティ ラヤーナーム
भवप्रत्यय: バヴァプラティヤヤハ
(以下のような修行者は あるところまでヨーガを究め達成したけれど、来世も)再生されるものである。再生する原因がある。
विदेह प्रकृति लयानाम् ヴィデーハ プラクリティ ラヤーナーム
(前回に述べた無想三昧のうち)
ヴィデーハとよばれる離身者や、プラクリティラヤと呼ばれるプラクリティの自性にはまってしまった者。
・विदेह ヴィデーハ
離身者(幽体離脱ではない)、コーザル体(原因体)まで辿り着いたもの
・महाविदेह (3-43参照)/マハーヴィデーハ
大脱身
・प्रकृतिलय(1-45,3-48参照)プラクリティラヤ
自性に没入した者。
展開したグナをプラクリティという核まで巻き戻すところまで達成したが、そこが真我だと思っているもの。つまり、独尊の境地までいかなかったもの。
【解説】
熱心に修行をして意識を肉体の外にとどめることに成功はした、また肉体の縛りから解放され自由になった、このような状態をマハーヴィデーハ、もしくはヴィデーハといいます。
また、熱心に修行した人が目的まで達せずに途中で亡くなった場合もマハーヴィデーハとよぶことがあります。こういった状態の人や、プラクリティという森羅万象の原始的なエネルギーの初期の段階を真実だと思い込んでそこに嵌ってしまった人(プラクリティラヤといいます)、このような人たちは解脱には失敗し、惜しいところで人生を終えてしまいました。
しかし、並みの修行者よりは集中して修行に励んだので人生に何を懸けたのかサンスカーラに深く刻まれています。
寝ても覚めても修行のことばかり没頭している人は、過去も来世も修行ばかりしている、という輪廻の考え方から次の人生も人間の姿をもって修行をする因ができています。ヨガを行ずる家庭に生まれることもあるし、たとえヨガと1ミリも関係のないような家族の間に生まれても、過去世からのサンスカーラを受け継いでいるのでカルマの法則から行為は連鎖し、来世も再び修行をするということがテキストの解説にありました。
この節は、いろんな解説があるのですが、ポジティブに考えれば、熱心に修行をしていた人には再び人間として生まれ修行に励む環境が待っている、ということ。
人間として再度生まれ変わるだけでも難しいことですから、幸いなことでもあります。
一方で、低い解脱にはまり、「私は真我を見た、輪廻を絶った」と思っている修行者に対して「解脱は失敗!また輪廻の中を彷徨うよ」という警告にも聞こえますね。
元のシュローカもシンプルで、「(いい線まできたけれど)最終解脱まで果たせなかった場合、再生されるもの(=バヴァプラティヤ)」とシンプルに述べているのみです。読み手の進捗度次第で、受け取りかたは変わるかもしれません。
(ほか、テキスト中の単語補足)
・योगभ्रष्ट साधक ヨーガブラシュタ サーダカ
ヨガの目的に到達しなかった修行者。
解脱し損ねたヨギ。
・पूर्व जन्म プールヴァ ジャナム
前世
श्रध्दावीर्यस्मृतिसमाधिप्रज्ञापूर्वक इतरेषाम् ॥20॥
シュラッダーヴィールヤスムリティサマーディプラジュニャープールヴァカ イタレーシャン
इतरेषाम् イタレーシャーン
その他(修行者は)
श्रध्दावीर्यस्मृतिसमाधिप्रज्ञापूर्वक:
シュラッダー ヴィールヤ スムリティ サマーディ プラジュニャープールヴァカハ
श्रद्धा シュラッダー
信
वीर्य ヴィールヤ
精進 努力
स्मृति スムリティ
念じること
समाधी サマーディ
三昧。客体だけを意識する浅いサマーディから、より高い境地のサマーディまで段階がある。
प्रज्ञा プラジュニャー
世界の実相を如実に知る真の智、般若、悟りの智慧 。
この5つ、シュラッダー、ヴィールヤ、スムリティ、サマーディ、プラジュニャーは仏教の五根五力にあたります。この5つが揃って、シッダ(सिद्ध ヨーガを高い境地まで究めた神通力)を得る。
【解説】
シュローカの先頭にシュラッダーがあるのは、この信念がないとまず何も始まらない、そこにいる存在の意味もない、ということから一番重要なもので、何に対する信かは、神に対して、宇宙に対して、師匠に対して、修行法に対して、道をしめしてくれる全ての存在、そして自分自身に対する信のことをいいます。
もし、この全てに対して
「修行をしてもきっと救われない。私は馬鹿だから。」
「死んだら何もかも無」
「あの先生はこき使ってばかりで教えてくれない」
これだけ疑い深ければ、成功は遠くなりますよね。
とくにこのシュラッダーとヴィールヤとスムリティがあわさると、記憶力も相当強くなるといいます。特にスムリティとよばれる"念”は、短期一本勝負ではなく、来る日も来る日もそれに向かっていく持続的な積み重ねです。これが時々やったりやらなかったり・・となると念とは言いません。
過去のサンスカーラはいったんできると、消えることはないので、そのまま自分の思考や行為に影響するものですが、この5つのシュラッダー、ヴィールヤ、スムリティ、サマーディ、プラジュニャーを合わせて神通力を得るまでになると、新たなサンスカーラが過去のサンスカーラを駆逐し、心が研ぎ澄まされていきます。この流れをうけて、新たに得る智慧を リタンバラー(真理を保有する智慧)といいます。
तीव्रसंवेगानामासन्न: ॥21॥
ティーヴラサンヴェーガーナーマーサンナハ
तीव्रसंवेगानाम् ティーヴラサンヴェーガーナーン
情熱を注いでどんどん修行に打ち込む者は、(無種子三昧までの道のりが)
आसन्न: アーサンナハ
早く完成する。
・तीव्र संवेग ティーヴラ サンヴェーガ
激しい情熱、熱意
・निर्बीज समाधि ニルヴィージャ サマーディ
無種子三昧(=無想三昧)
मृदुमध्याधिमात्रत्वात्ततो अपि विशेष:॥22॥
ムリドゥマデャーディマートラトワーッタトー アピ ヴィシェーシャハ
मृदुमध्याधिमात्रत्वात् ムリドゥマッデャーディマートラトワート
(激しい情熱の中にも)ゆっくりしたもの、中程度、一心不乱さによって
ततः タタハ
熱心な修行者の3つのタイプの中
अपि アピ
~にも
विशेष: ヴィシェーシャハ
(ヨーガを成就するまでの時間の)差が生じる。
【解説】
全ての人が情熱を注いで一心不乱になれるかというと、そうでもなく、その差は今までの魂の成長度合いやサンスカーラの痕跡によってかわります。その人のサンスカーラの中に修行以外、真我と出会う目的以外、何も関心がなければ一心不乱になれるでしょう。
合間合間に、他のことに関心がわいて修行が中断してしまう場合、その人にとって今生に果たすべき課題があります。何かに欲望や愛着を抱えていたとして、それを手に入れて満足した結果、それ以上求めなくなったり、もっと渇望することもあるでしょう。心が折れる経験であれば未練や憎悪を味わい、まわりまわって執着を捨離するきっかけになるかもしれません。
ヨーガスートラの初めに、修習(アビャーサ)と捨離(ヴァイラーギャ)がヨガの成功の要であると説かれているとおり、これらがプラクリティの転変を止めるために必要なプロセスになります。通らなくてはいけない試練が個人個人魂の成長度合いによって違っていて、他者がその人のカルマを背負うことはできないのです。一心不乱に修行ができない人であっても、今生で経験(ボーガ)して、清算しなくてはいけないカルマがある、ということも付け加えておきたいと思います。